秘教科学では、「死者の霊」が降りてきて私たちと交信することはできないことを教えるので、一般的に考えられている意味での「死者の霊」との交わりがあるとは考えない。霊媒という言葉を定義するとすれば、「他の存在から意識的に、あるいは無意識的に働く意志によって、また、他の存在の行為が顕現され伝達される媒介となっているといわれている人」である。
他人の「動物磁気」または、その磁気を送っている意志の働きから多かれ少なかれ影響を受けない人間を、この地上に見つけることは極めて難しい。兵士に敬愛されている将軍が最前線に馬を駆れば、兵士は皆「霊媒」となる。彼等は熱狂して燃え上がり、恐れもなく将軍のあとに続き、死と向き合い敵を攻撃する。同じ衝動が彼等すべてに浸透しているのである。兵士はそれぞれ他の人の「霊媒」となり、臆病な者は勇気に満たされるようになる。全く霊媒的でなく、従って流行性または風土性の精神的影響に無感覚な人だけが例外であり、自分の独立性を主張して戦場を逃げ去るのである。
宣教師が説教壇に上がると、彼が言うことはつじつまが合わず訳の分からぬものばかりであるにもかかわらず、彼のふるまいや嘆きを帯びた声の印象は、会衆のうちで少なくとも女性に「回心」を起こさせるのに十分衝撃的である。彼が容姿が立派で雄弁な人なら、「冷やかしのために来た」人たちでさえも感動して「そこに残って祈る」ことだろう。人々は劇場に入ると、それがパントマイムであろうと、悲劇であろうと、道化芝居であろうと、劇を演じている人物に従って涙をこぼしたり、腹をよじって笑ったりするのである。全く無関心な人を除けば、演技者の情緒や行為が何らかの方法で影響を与え、それによって、「他の人の行為が顕現され伝達される媒介」とならない人は一人もいない。つまりこの意味では、あらゆる人、子供ですら霊媒であるとも言えるのである。
しかし、上記の定義は一般的な意味での「霊媒」を表すのに十分ではないので、もう少し言葉を補足して、「霊媒とは、他の存在の行為が、意識的に、あるいは無意識的に働く意志によって異常な程度にまで現され、伝達される媒介となっているといわれている人」としなければならない。すると、私たちが正常と異常の境界線をどこで引くかということによって、いわゆる「霊媒」の数が変わってくるが、誰が霊媒であり誰が霊媒でないかを決めるのは、どこで正気が終わってどこから狂気が始まっているかを判断することと同じように難しいことである。人はそれぞれ、ちょっと変わっている点があるし、それにちょっとした「霊媒性」、すなわち、不意打ちを食らう原因となる何らかの弱点を持っている。人が少し変わっていても本当に異常だとはいえないし、少し霊媒性のある一般の人を「霊媒」と呼ぶこともできない。ある人が異常であるかないかについての意見は違っていると同様に、人の霊媒性についても意見は違うだろう。実生活においてある人は大変変わり者かもしれないが、もはや自分が何をしているのか分からなくなったり、自分の生活や仕事ができなくなるぐらいまで世間から離れてしまわないかぎり、その人が異常だとは考えられない。
同じ原則を「霊媒」にも適用すれば、次のことがいえる。つまり、上記のような方法で、自己を支配する力を失い、もはや、自分自身の行為を決める力や意志をもたなくなったという程度にまで他の存在の影響を受ける人、このような人だけが霊媒と考えられるのである。自己の支配力がそのように放棄されるのは、能動的かもしれないし受動的かもしれない。あるいは、意識的であるかもしれないし、無意識的であるかもしれない。また、本人の意志によるかもしれないし、不本意であるかもしれない。それは、その影響を霊媒に及ぼす存在の性質によって異なる。
ある人が、意識的にかつ自発的に自分の意志を「他の存在」に服従させ、その奴隷となることもある。この「他の存在」というのが人間であるとすれば、その霊媒はその人の忠実な召し使いとなり、善い目的、または悪い目的のために、その人に利用されるかもしれない。「他の存在」というのは、ある想念であることもある。つまり、愛、貪欲、憎しみ、嫉妬や何か他の感情である。霊媒に及ぼされる影響は、その想念の強さと霊媒に残っている自己支配力の総量次第で決まる。また、「他の存在」はエレメンタリーやエレメンタルであることもあり、哀れな霊媒は異常者や犯罪者となる。
一方で、「他の存在」はその人自身の高級本質(higher principle)――その人の高級本質、または普遍霊の光線――のいずれかであることもある。その時、霊媒は偉大な天才、著述家、詩人、芸術家、音楽家、発明家となる。さらに、「他の存在」がマハートマと呼ばれる偉大な聖者の一人であることもある。その場合、意識的で自発的な霊媒は「チェーラ(弟子)」と呼ばれる。
さらに、生まれてから一度も「霊媒」という言葉を聞いたことがなく、全く気づかないでいるのに強い霊媒であることもある。そのような人の行為は、周囲にある可視、不可視のものから、多かれ少なかれ無意識的に影響を受けている。その人はエレメンタリーやエレメンタルという言葉の意味を知りもしないのに、それらの餌じきになっていることもあり、その結果、盗人や乱暴者、大酒飲みなどになるかもしれない。そしてよく証明されてきたように、犯罪は度々伝染性のものである。またある人が、それまで知られていたその人の性格とは全く異るようなことを、不可視の影響によってさせられることもある。例えば大嘘つきが、何か不可視の影響によって、真実を話すように仕向けられることもある。普段はたいへん気の小さい人が、何か大きな事件が起きた時、突然英雄的な行為をすることもある。泥棒で放浪の身である人が、突然寛大な行為をすることもある。このように霊媒の性質は様々である。
その上、霊媒が影響の源、より明確にいえば、自分を通して行動を伝達している存在の性質を知っているかもしれないし、知らないかもしれない。ある霊媒は、イエス・キリストや聖者と通じ合っているのだと思い込むかもしれない。あるいは、シェークスピアの「知的光線」と一致していて、シェークスピアのような詩を書いている人が、シェークスピアの個人霊が自分を通して書いているのだと考えていることもあり得るが、そう考えただけでは彼の詩は良くも悪くもならない。あるアデプトの影響を受けて偉大な科学書を書いてはいるが、そのインスピレーションの源については何も知らず、自分を通して書いているのはファラデーかベーコン卿の「霊」だと考えているかもしれない。しかも、そのことを知らずにその人は、ずっと「チェーラ」として働いているのである。
以上のことからいえることは、霊媒性質を働かせることは、自己の支配力をほとんど完全に捨てることであり、その結果が善か悪かはそれがどのように利用され、どんな目的で行なわれているかということによる。さらに、この利用と目的は、霊媒が自分の知力と肉体の力の保護権を、しばらく、自発的にまたは不本意に放棄して譲り渡す存在の性質についてどの程度知っているかということによるのである。
心身の力をいかなる未知の存在の影響にも無分別に任せる人は、疑いなく「変り者」であり、正気であるとは考えられない。自分の金や貴重品を、それを貸してくれという全く見知らぬ者に託す人が正気でないのと同じである。比較的に少ないが、私達は時たまそのような人々に出会う。普通は、その人達は白痴のような目つきで他の人をじろじろ見たり、自分の妄想を狂信して無知にしがみつくことでそれと分かる。私達は、そのような人達を非難するのではなく、哀れむべきであり、もし可能なら、彼等が招いている危険性に関して教えるべきである。チェーラは、自分が知っており、かつ、その動機の純粋さ、目的の真剣さ、知力と智慧と力に完全に信頼をおいている大師という優れた存在に、しばらくの間であるが意識的に自分の意志で自分の知的能力を貸すのであるが、そのような弟子を、低俗な意味での「霊媒」と考えるべきかどうかは、上記のことをよく考えた上で自分自身で判断すべきである。