神智学徒について

*セオソフィストは神智学を実践する人のこと。

悟りを開いた聖者の特性は、第一に真我すなわち至高霊のみが至福であり他はすべて苦痛であることを知って、あらゆる欲望から解放されていることである。これは、絶えず心を神聖なものに向けることによって達成される。第二にこの人は、何が起ころうと、それに対して執着することも、反発することもなく、何ら限定されることなく活動することである。最後は、五官が征服されていることである。しかしこれは、第二の特性が身につけられていないと偽善と高慢を生むので、役に立たないばかりか、害がある。また、第一の特性を体得していない人には、第二の特性も大して役に立たない。

愛他主義を実践しない者、自分の最後の一口の食べ物を、自分より弱い人、貧しい人に分け与えようとしない人、いかなる人種、国民、宗教の信者であろうと、またいつどこで出合った人であろうと、苦しんでいる兄弟を助けようとしない人、また、人類の苦痛の叫びに耳を貸さない人、罪のない人が非難れているのを聞いたのに、自分の事のようにその人を弁護しない人は、セオソフィストとは言えない。

*霊的な知識のことも指す。

神の命令された義務を捨ててしまう人は正しくない。義務を果たさなければ何か悪いことが起こるだろうとか、義務を果たせばこれから起こる苦難を取り除くことができるだろうと考えて義務を果たすのは、結果のために働いている人である。義務はただ神が命じられたからというだけで行なうべきである。神はいつかまた、その義務の放棄をお命じになるかもしれない。私たちの落ち着きのない性質が平静になるまで行為のあらゆる成果を神に捧げて働き、行為を正しく行なう力は神のおかけだと考えるべきである。人間のまことの生命は、至高霊と統一して休息することである。

まことの生命は、私達の行為によって生み出されたものではない。生命は実在であり真理であって、私達とは独立して存在するものである。この、真理に反したようにみえるものはすべて存在しないことを悟るのは、新しい意識であって行為ではない。人間の解脱は人間の行為とは関係がない。条件づけられた存在から自分自身を解放することが人間には全く不可能であることを早く悟らせるという意味において行為は役に立つ。しかしそれを悟る段階を過ぎると、行為は助けとなるよりはむしろ、妨害となるのである。

神の命令に従って働く人々が、こうして働く力は神からの賜物であり、人間の意識のなす技でないと悟ったら、もはや行為を必要としなくなる。すると清い心は真理で満たされ、自らと神が一体であることを知る。あらゆる行為は自然の三徳で行なわれるものであって、魂で行なわれるものではないことを知り、自分自身が本当に行為をしているという考えをまず追い払わなければならない。そして、すべての行為を献身に基づいて行なわなければならない。つまり、全行為を自分自身に捧げるのではなく、至高者への生贄いけにえとして捧げるべきである。自分自身を神格化して生贄を受ける神にするか、または、本当の神(イーシュヴァラ)にあらゆる行為を捧げるかである。つまり、あらゆる行為は利己的な目的で行われるのか、あるいは一切である神のために行なわれるか、どちらかである。ここに動機が重要なものとなる。すばらしい勇敢な行為を成し遂げたり、人の役に立つことをしたり、大を助けるために知識を得たりしたとしても、もし、これを単に自分が救われるだろうと考えて行なったならば、ただ自分のために働いているのであって、自分に犠牲を捧げていることになる。従って私達は、自分は行為者ではなく、単に行為の目撃者にしかすぎないということを知って、心の中で、一切である神に献身するようにしなければならない。

*サーンキヤ哲学のトリグナ(サットヴァ・純質、ラジャス・激質、タマス・蘙質)

人間は死すべき体の中にいるので、胸に疑念が浮かぶと心はその影響を受ける。このような疑念が浮かぶのは、何かについて無知なためである。従って、「知識の剣によって」疑念を追い払うべきである。ある疑念に対して適切な答があれば、その範囲で疑念を晴らすことになる。あらゆる疑念は低級な性質からくるのであって、決して高級な性質からこないものである。従って、献身的になればなるほど、自分のサットヴァ性質(善性)の中にある知識を一層明瞭に知ることができるようになる。このことについては次のようなことが言われている。「完全に献身できるようになった人(または献身の修養に精励する人)は時がたつにつれ、自分自身の中に自然に湧き出る霊的知識を発見するようになる」。また「疑惑に満ちた心の持ち主はこの世も、あの世(神々の世界)も楽しみ味わうことができないし、究極の至福も味わうことができない」。たとえ私達が怠惰で疑い深くても、もし私達の中に高級我がありさえすれば、この高級我は知識の欠乏に勝つだろうし、人類の全体の流れに共通な究極の至福に私達を導いてくれるだろう、という考えを捨てるべきであると『バガヴァッド・ギーター』からのあとの引用文は示しているのである。

まことの祈りは、あらゆる聖なるものについての瞑想であり、聖なるものが私達自身、私達の日常生活及び行為にどのように適用するかについての瞑想である。そして、聖なるものについて何か知識を与えられるように、その影響力を一層強くし、生活をよりよく、より高尚にしようとする心からの強い願いをこめて行なわれる。このような思いはすべて、万物が発出してきた至高の神聖なエッセンスについての意識と密接につながらなければならない。

霊的修養は一心集中を通して達成されるものである。一心集中は、毎日各瞬間に続けられないと役立つものではない。瞑想は「活動的で外的な思いの停止」と定義されている。一心集中は、ある特定の目的に向かっての全傾向である。例えば献身的な母親とは、何よりもまず、あらゆる方面において自分の子供の利害を思い回らすのであって、ただ座ってひねもす子供の利害の一つの面についてじっと考えるというわけではない。思いというものはいわば増殖力をもっているので、心が一つの思想にしっかりと据えられると、その思いに色づけられるようになる。そして、その思いに関係のあるすべてのものが心に浮かぶようになると言ってもよい。だから神秘家は一心集中して絶えず考える対象についての知識を得られるようになる。するとクリシュナの次の言葉の意味が分かってくる。「絶えず私を思うべきで、私をのみ信ずるべきである。そうすれば、君は必ず私にくるだろう」

人生は最大の教師である。人生は魂の偉大な顕現である。また魂は、至高者を顕現するものである。従って、あらゆる方法はよいものであり、あらゆることは「献身」という大きな目的の部分でしかない。「献身とは、行動して成功することである」と『バガヴァッド・ギーター』は言う。

サイキック能力は法則を明らかにするものなので、開いてきたら使用しなくてはいけない。しかし、サイキック能力の価値を過大評価してはならないし、その危険を軽視してもいけない。サイキック能力をより所にする人は、そこで高慢と自己満足に屈してしまう。これから登山する山の一合目に着いたにすぎないのに、その山を征服したと勘違いしている人に似ている。