神智学の教え

この文章はブラヴァツキー著『神智学の鍵』をもとに編集しています。


神智学とは何か?

  神智学は宗教ですか?

 神智学は宗教ではありません。神聖な知識または神聖な科学です。また、神智学はあらゆる宗教、真理のエッセンスです。その真理の一滴があらゆる宗教の基礎となっています。比喩的に言いますと、この世の宗教はプリズムによって分解された7色の光のどれかです。それぞれの色の光は、その色の違いによって互いに攻撃しあったり、偽物だとののしったり、無視したりします。しかし、人間の認識が成長するにつれ、色のついた光は次第に色あせ、最後には永遠の真理である白光を見るようになるでしょう。それこそが神智学です。

  では、キリスト教や仏教、ヒンズー教など、世界の大きな宗教は神智学から出たとおっしゃっているのですか?また、神智学が学ばれることによって、人々を悩ませている宗教対立は無くなるだろうとおっしゃるのですね?

 その通りです。神智学協会はまだ取るに足らない種ですが、水をあげ育てれば、いつかは智慧の木となるでしょう。なぜなら、様々な宗教と哲学を学び、それらを冷静に偏見のない目で比較することによって、人々は真理に到達することができるからです。

  神智学という言葉の本当の意味は何ですか?

 「神聖な智慧」、テオソフィア(Theosophia)すなわち神々の智慧です。テオス(Theos)という言葉はギリシア語で神という意味ですが、神聖な存在のことであって、普通私達が言っているような意味での「神」ではありません。ですからある人が翻訳しているように「神の智慧」ではなく、神々が持っているような神聖な智慧のことです。神智学という言葉は何千年も昔からありました。

  その名前の由来はなんですか?

 アレクサンドリアの哲学者の中で 、真理愛好者と言われているフィラレーテイアン派(Philaletheian)から来ています。フィル(phil)は愛すること、アレーテイア(aletheia)は真理という意味です。神智学という名称は三世紀に折衷神智学を創始した、アンモニオ・サッカスとその弟子達(*)から始まったものです。

* 新プラトン主義の創設者プロティノスやキリスト教教父のオリゲネスなどがいる。

  神智学という言葉の本当の意味は何ですか?

 「神聖な智慧」、テオソフィア(Theosophia)すなわち神々の智慧です。テオス(Theos)という言葉はギリシア語で神という意味ですが、神聖な存在のことであって、普通私達が言っているような意味での「神」ではありません。ですからある人が翻訳しているように「神の智慧」ではなく、神々が持っているような神聖な智慧のことです。神智学という言葉は何千年も昔からありました。

神智学協会の目的

  神智学協会の目的は何ですか?

 協会には当初から三つの目的がありました。

  1. 人種、肌の色、宗教の差別をせず、人類の普遍的同胞団の核を作ること。
  2. アーリア人および他の民族の聖典の研究、世界の宗教および科学の研究を増進すること。また、古代アジアの文献、すなわちバラモン、仏教、ゾロアスターの哲学の重要性を証明すること。
  3. あらゆる面で自然の秘められている神秘を探求すること。特に人間に潜在するサイキックおよび霊的な能力を研究すること。

 大まかに言えば、これが神智学の三主要目的です。
 しかし、いちばん大事な目的は、精神的、肉体的、あらゆる形の人間の苦しみを取り除くことです。そして私達は、肉体の苦痛を取り除くよりも、精神的な苦痛を取り除くほうがずつと大切だと思っています。神智学は倫理を教え込まなければなりません。もしも肉体の苦痛を減らしたいなら、魂を浄化しなければなりません。つまり、自分を含め苦しむ人を助けることこそ神智学の道です。利己的な目的や個人的な野心、高慢、虚栄のためにオカルティズムを学んでも、決してまことのゴールに達することはできません。

神智学と心霊主義(スピリチュアリズム)との違い

  心霊主義を信じますか?

 何か普通でない現象を見せることを心霊主義と言われるなら、私達は心霊主義を全く信じません。心霊主義者達は、こうした現象はみな死んだ人達(特に自分達の親類)の「霊」が行うもので、この「霊達」は自分が愛した人達に連絡するためにこの世に戻るのだと言います。私達はこの点をきっぱり否定します。死者の霊は滅多にしか起こらない例外的な場合以外は、この世に戻ることはできないと私達は主張します。また、全く主観的な方法による以外は、霊は人間と通信することもありません。客観的に見えるものは死者の脱け殻、魂殻でしかありません。しかし、サイキック的な心霊主義や、いわば「霊的」な心霊主義は固く信じます。

  しかし、「霊達」から受けたメッセージの多くは知能のあることを示しているだけではなく、霊媒の知らない事実や、時には研究者や傍聴者の考えもしないことを知っていることさえあります。

 知能や知識があるからと言って、必ずしもそのメッセージは「霊」のものであり、肉体を持たない魂から発せられるものだとは限りません。ある夢遊病者達は、音楽や数学を習ったことがないのに、トランス状態の間に作曲したり、詩を作ったり、数学の問題を解いたりした例があります。ある人は目が覚めている時には全く知らないヘブライ語やラテン語のような言葉で出された問題にちゃんと答えたり、その言葉を話した例さえいくつかあります。このようなことはみな熟睡状態で行われます。

  あなたはどう説明なさるのですか?

 私達は次のように断言します。つまり、人間の中の神聖な火花は宇宙大霊と本質的に同一なので、私達の「霊的我」はほとんど全知です。しかし、物質という障害物のためにその知識を現すことができません。そこでこの障害物が除かれれば除かれるほど、言い換えれば、肉体が無力になればなるほど、内なる我がこの世界に十分に現れることができるようになるのです。肉体が無力になるというのは、熟睡や深いトランス、または病気の場合のように、肉体自体の活動と意識がなくなることです。これが否定しがたい、知性や知識が示される高級な種類の、本当にすばらしい現象についての私達神智学者の説明です。

神について

  あなたは神を信じていらっしゃいますか?

 それはあなたのおっしゃる「神」の意味によります。

  キリスト教の神、イエスの父で創造主のこと、つまりモーセが聖書で言っている神のことです。

 そのような神を私達は信じません。人間の巨大な影にしかすぎず、おまけに、あまりよくない人間の影である人格神や、人間と同形の超宇宙的な神の概念には、私達は反対します。神学の神には数え切れぬ矛盾と、論理的に不可能な所があると私達は主張し、それを証明します。ですから、私達はそのような神とは関係はありません。

  その理由をお聞かせください。

 多くの問題がありますので、すべて取り上げるわけにはいきませんが、少しだけお答えしましょう。キリスト教信者達は自分達の神を、無限、絶対であると言っていませんか?

  そうだと思います。

 では、無限で絶対的であるならば、どうして神が形体を持ち、ものの創造主であり得ましょうか? 形体には制限があり、当然、始まりも終わりもあります。創造するためには、神は考えたり計画したりしなければなりません。絶対なる者が考えるということが、どうしてあり得ましょうか。また、限定され、有限で条件付けられているものに、絶対者はどんな関係がもてるというのでしょうか。活動しない永遠の本質がどうして発散することができるでしょうか。ヴェーダーンタのパラブラフマン(絶対者)はこのようなことは何もしません。新しい周期の始まりに、常に隠されており、理解できない一つの本質から活動力、創造力(ロゴス)を発散させるのは、永遠で周期的な法則です。

  では、あなたは無神論者ですか?

 私達の知る所ではそうではありません。ただ、神人同形の神を信じないという意味では、無神論者です。私達は普遍的な本質、万物の聖なる根源を信じます。すなわちそこからあらゆるものが出て行き、存在の大周期の終わりにすべてのものが吸収される大起源を信じます。

  あなたにとっての神とは何でしょうか?

 私達の神は永遠で絶えず進化をしていますが、創造しない宇宙の建設者です。宇宙自体は自身のエッセンスから展開しているのであって、創られたのではありません。象徴的に言えば、私達の神は円周のない球体のようなもので、存在しているあらゆるものを包括しているのです。つまり、目に見える宇宙、目に見えない宇宙のあらゆる原子の中に、周りにおられるのです。

神智学の宇宙観

  神智学では宇宙創造をどの様に考えているのですか?

 神智学では、宇宙創造ということを信じません。宇宙は極めて長い期間をかけて、主観状態と客観状態を周期的に繰り返しています。例えば、朝には太陽が上り大地が照らし出されますが、夜に日が沈むと全てが暗闇に包まれるようなものです。
 インドではこのような交代を「梵の昼と夜」、またはマンヴァンタラ(出現)とプララヤ(消滅)と呼んでいます。つまり、宇宙の昼と夜です。夜の間、原子はみな同質のものに溶け込み、物質はただ1つになります。

  その度に誰が宇宙を創造するのですか?

 誰も創造しません。キリスト教以前の哲学者達はその創造を発散と呼びました。神智学では、無限の空間に周期的に自らを反映させる永遠の実在をこの過程に認めます。この発散によって反映される客観的宇宙、つまり私達の住む宇宙は一時的なものであり、幻影にすぎません。客観的宇宙を発散させる永遠の実在こそが真実なのです。
 発散された宇宙には7つの界があるとされています。界を追うごとに宇宙はだんだんと濃密に、物質的になり、最終的には私たちのいる世界に達するのです。

  7つの界とはどういうことでしょうか?

 この地球は、7つの地球のうちのひつとつであるということです。しかし、他の六つの地球は私達の地球と同じ客観的な階層にはないので、目で見ることはできません。また、層と言う時、地層のような一つの層の上に別の層が置かれているものを想像しないでください。私達が層と言っているのは、感覚では知覚できない、いわば全く違った空間の階層です。それは私達の知力と意識の外側であり、三次元空間の外側、時間区分の外側にあります。

  その違った階層について、何か具体的な例をあげることができますか?

 例えば、夢の中の意識状態では何年もかかる出来事が一瞬で通り過ぎます。夢の中での知的作用の大変な速さや、他の全ての感覚を自然に感じることは、私達が全く別の世界にいることを示しています。神智学では、自然界に七つの階層があるのと同じように、人間が生き、考え、存在を持つことのできる七つの状態があると教えます。

人間の七本質

  人間の七つの本質とは何でしょうか?

 まず、人間の中には二つの異なる性質があります。霊的なものと肉体的なものです。さらに霊的な性質を三つに、肉体的な性質を四つに分け、合わせて七つになります。この七つの性質を表にしてみましょう。

名称 説明
肉体 生きている間の全ての本質の媒体
プラーナ 生命または生気の本質
アストラル体 幽体
カーマ・ルーパ 動物的欲望と感情
マナス 心、知性
ブッディ 智慧、アートマンの媒体
アートマン

 アートマンは人間の個人的な特性ではなく、形体のない神聖なエッセンスであって、目に見えず分割することもできない絶対者という意味での霊です。アートマンは人間に影響を及ぼすだけです。人間の中に入り、全身に行き渡るのは、霊の媒体であり直接の発散であるブッディを通して放射された光線です。ブッディはアートマンの媒体です。
 マナスは人間の自我であり知性です。マナスには二つの本質があり、一つはブッディに向かって引き寄せられる高級マナスと、もう一つは動物的欲望と感情の座であるカーマ・ルーパに引き寄せられる低級マナスです。人間には誰にでもこの二つの本質があり、一方がもう一方より活動的です。
 人間は、生きている間は七重の存在であり、死後はカーマ・ローカで五つとなり、デヴァチャンで三つになります。

死後の状態について

  死後の状態について詳しく教えてください。カーマ・ローカ、デヴァチャンというのは何でしょうか?

 人間が死ぬと、その低級な三つの本質である、肉体、生命、生命の媒体であるアストラル体は永久にその人から離れます。次に残りの四つ、カーマルーパ、マナス、ブッディ、アートマンがカーマ・ローカに入ります。カーマローカとはアストラル界のことで、昔からよく言われる黄泉の国のことですが、それは場所というより、一定の領域も境界もない主観的空間です。
 その後、カーマ・ルーパが抜け落ちると低級マナスも消滅し、アートマン、ブッディ、高級マナスの三つがデヴァチャン状態へと移るのです。
 デヴァチャンとは、文字通り「神の国」で、天国と言ってもいいでしょう。デヴァチャンでは過去の苦しみや悲しみを全く忘れ、来世地上に生まれるまで幸福に過ごします。

  それは涅槃のようなものでしょうか?

 いえ、涅槃ではありません。デヴァチャンは私達の意識の幻影つまり幸福な夢ですが、涅槃に達するには、このような幻影を見たいとすら思わないようになっていなければなりません。デヴァチャンは単に地上の理想化された状態にすぎず、人生を終えた後の休息期間のようなものです。

  私達は死後休息期に入って、しばらくするとまた生まれ変わるということですね。

 そうです。この生命の周期は人間の一日に例えることができます。昼間は活動的な時間を過ごし、夜になれば体を休めるために眠ります。同様に、活動的な生涯の後にはデヴァチャンの休息期が続きます。

カルマについて

  では、この生涯がどんなものであっても、死後の世界で自我が罰せられることはないということですか?

 その人が善人であろうと悪人であろうと、ひとたび肉体生活の苦労から解放されれば、疲れ果てた自我は休息期間に入る権利を得ます。絶対的な法則は、来世では前世に犯した全ての罪に対してカルマ的な罰を与えますが、死後肉体を脱した自我に対しては安息を与えるのです。

  罪を犯した人に対して、そのカルマの法則はどのように罰を与えるのですか?

 カルマは、自我が人生の苦しみから解放されれ、休息を得ている間、その魂が再び化身するときまで、デヴァチャンの入り口で待ち構えています。休息を終えた自我が、初めてデヴァチャンの扉を開いたとき、未来の運命は決まります。自我は再び、活動するカルマの法則に支配されるようになります。自我の前世の罪が罰せられるのは、この再生においてです。新しい人生は、この神秘で容赦のない、公正で絶対誤りのない法則によって選ばれ、用意されるのです。自我が投げ込まれるのは、芝居がかった炎や尻尾(しっぽ)や角のあるばかばかしいい悪魔達のいる想像上の地獄ではなく、この地上です。
 つまり、自分が罪を犯したこの世界でこそ、あらゆる悪い思いと行いを贖(あがな)わなければなりません。自分が蒔いたものを刈り取るのです。カルマの法則は、自我の過去の人格我の手から苦しみを受けた他の自我達をすべて、この自我の周りに集めるでしょう。

  カルマとはつまり、どのようなものなのでしょうか?

 カルマは、人間の不正と自然のあらゆる失敗を間違いなく賠償する者であり、悪行の厳しい調整者であって、公平に報いたり罰したりする応報の法則です。最も厳密な意味で、カルマは「誰にもえこひいきしない者」であり、例えば祈っても、脇へ反らせたりなだめたりすることはできません。これは、ヒンズー教徒と仏教徒の共通の信念です。
 私達の考えでは、カルマに代表される不可知の宇宙的な神は、間違うことのない、そして何かに怒ることもなく、そうかと言って特別な情けをかけることもない、絶対的に公平な権威であるということです。ですから、人間がこの法則を無視して自分勝手に制裁を加えることは、とにかく冒涜的なことです。人間の法則は防止的な意味でなら用いても良いですが、刑罰的に用いてはいけません。しかし、カルマを信じているにも関わらず、なお復讐したり、受けた危害を許さず善をもって悪に報いないなら、その人は自分を傷つけるだけです。カルマが自分を害した人を必ず罰するのに、人間が他人への罰を大法に任せず自分の小さな力を加えて敵にそれ以上の罰を与えようとすることは、自分の敵に未来の報酬を与えることになり、自分には罰をもたらすことになります。

  カルマの法則を信じることにどのような意味があるのでしょうか?

 私達の今生は前世に残された種から成長したものであるという原理は、未来にも当てはまります。あらゆる因果関係は、現在だけでなく過去や未来にもあるということを理解すれば、この世でのあらゆる行動の意味や他の人達との関係性が分かってきます。気高く利他的な行為は私達を前進させ、一方で卑しく利己的な行為は私達を後退させます。もし、今生が全てであるとすれば、多くのものはみじめでつまらないものになってしまうでしょう。しかし、次の生のへの準備と考えれば、今生は彼方にある宮殿に向かう一人旅ではなく、仲間と連れ立ってくぐる黄金の門になるのです。
 また、私達が他の人達を助けるとき、その人達のカルマを成就しているだけでなく、私達自身のカルマも成就しているのです。私達がいつも気にかけなければいけないのは、自分もそのメンバーの一人である、人類全体の発達です。私達は、自分自身の行動によって、人類が次のより高い世界へと到達する機会を生かすことも殺すこともできるのです。


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